Clockway

項の日記です。

物は言い様

外は長雨が続いています。
この時期の雨はELTのきみのてが脳内再生されるのですが、もはや10月中旬に降られると秋を誘い連れる雨というより冬を誘い連れる雨です。ここまで降ると冬が不安ですね。スタッドレス不可避。

先輩が火の粉を避けようとして飛び火させた上司がグルグルアニメを見てくれました。
久し振りに、人に影響を与えて人に行動させてしまうことが怖いなと思いました。なんだか、強制みたいだ。その人の選択を奪ったみたいだ。命令みたいだ。もしもその人が私が影響を与えたものに強く没頭して多くの時間を費やしてしまったらどうしよう。もしもその人が私が影響を与えたもので不愉快な出来事や良くないことが起きたらどうしよう。面白くもなんともないのにこちらに気を使って嘘をついていたらどうしよう。そんな要らんことを考える。そこまで責任は負ってないし大それたことはきっと起きないのにね。

私は人に勧められたものはあまり見てみないタイプで、理由は、それにハマってしまったらたくさんのお金や時間を費やしそうで怖いし、自分に合わなかったら相手にそれを伝えることが申し訳ないから。だから私の人への宣伝への不安は、そのまま宣伝を受けとる自分の不安にも重なる。与え手も私、受け手も私で場面を想定していることになる。
おそまつにいさん先輩(職場にいるリアルおそまつにいさんだなぁというキャラをしている先輩)が、人から薦めを受けたものは、とりあえず見てみて、面白かったらそれで良いし、つまらなかったら、なぜ相手が何を思ってそれを自分に勧めたかを考えるようにしていると言っていた。
自分にはそういう発想はなく、あくまで作品のことのみを視野に入れていたので、相手について考えるまではしたことがなかったから、わざわざそんなことを考えるおそまつにいさん先輩は人間関係が好きなんだなぁと思った。でもおそまつにいさん先輩は、人間が嫌いだからわざわざ興味を持とうとして無理くり考えてるんじゃないかなと自己分析してた。判断材料が同じでも、それを受け止める人の違いによって、こうも正反対の結論が導き出されるものかと思い少し面白かった。
コミュニケーションは私同士の会話のみではない。私同士の会話とは私脳内の内的な言わば言語化さえされる必要もない葛藤とも言えるもの。それ以外のものは、「私」を主軸に考えると、私と私以外の会話、私以外で成されているすべての会話、この3つでコミュニケーションは構成されていると考えることができる。
相手が私と同じ気持ちになる確率なんて、それこそ考える必要のない確率なのかもしれないね? 明らかに相手に不利益が被る可能性が見えている場合を除いて。
逆に、相手によかれと思った行動が裏目に出ることも少なくないこの世の中。私自身のみと対話して生きているわけではないのだから。私は内省的な人間なのでほぼ思考を自分の内部で行っているけれども。外部へのコミュニケーションは、そんなに恐れなくても良いのかもしれないね。と、思った。
そして、ひとつの事実や判断材料から導き出される答えはひとつではないということ。その判断材料を思考する脳に結論は委ねられているということ。これは少し恐ろしいと思った。でもだからこそ、こんなにも社会は多様化して存在しているのだろう。

ぼんやりぼんやり、思考してしまう。秋の夜長ですな。昼だけど。