Clockway

項の日記です。

おばあちゃん

同居していた祖母が亡くなりました。
95歳、老衰でした。

6年前に動脈瘤が見付かって、爆ぜたらいつ死んでもおかしくないから、急にお腹痛いって言ったらすぐに救急車を呼ぶように言われて。それからしばらくは夜に、呼吸しているか息を潜めて聞くようにしていて。
3年前に骨折して、あまり歩けなくなって、それまでずっと一緒の部屋で寝ていたのに自分で仏間に布団を移動して、寝ている時間が増えて。
認知症の症状が始まって、荷物を勝手に移動させたり、自分の荷物を移動させたりした。ふらふらと出掛けることもあった。記憶が曖昧になっていたときもあった。危ないからって両親からお風呂にはいることを制限されて、それでも介護福祉サービスを利用することに父親が抵抗があったからお風呂に入れなくて、つらい思いをさせた。でも、少しでもスッキリするかなと思って体を拭くシートを渡してこれで体を拭くと良いよと促しても嫌がった。なんでや。トイレに行けなかったり(間に合わなかったり、筋力が足りなくて動けなかったり、行っても出なかったりして)
2年前にようやく介護福祉サービスを利用開始して、基本は在宅介護のまま、通所やショートステイを始めた。2020年1月の子年の絵で、「病気になりませんように」と描かれた。
1年前に入院した。重度の貧血と、末期の胃癌が発見された。退院後は自宅に戻らず、老人ホームに入ることになった。入院していたときは私のことはまだわかったみたいだけど、老人ホームに一度会いに行ったときは、もう私のことはわからなかった。
2月17日明朝、2時半に「お水ちょうだい」と宿直の職員へ言った。5時半に巡回したときには、息を引き取っていた。

6年前から死ぬ死ぬ詐欺をされ続けていたのでてっきりまだ数年は生きるものだと思い込んでいた。報を聞いた当日と翌日は仕事もありまだまだ実感はなかったけど、通夜、告別式を終えて、後悔の念が溢れている。もっとたくさん老人ホームに両親と一緒に行けばよかった。在宅介護が本当は本人の希望だったから、「自分が積極的に動けば、両親が動かなくなる」なんて打算をせずに、自分がもっと動けばよかった。もっと声を掛けてあげられたらよかった。子供のときのまま、もっと素直に接してあげられたらよかった。友人と一緒に遊んだ時間の少しでも、ばあちゃんのために使ってあげられたらよかった。
たぶんそれはばあちゃんの望みじゃない。
自分のできることは自分でしたい。他人に迷惑はかけたくない。他人のためのことはやってあげるけど、見返りは期待しない。それがばあちゃんだ。
ばあちゃんに説教をされたことは何度もあるけど怒られたことは一度しかない。中学生のとき。なにかひどいことをたくさん言ったのかな。「ばあちゃんだからって馬鹿にするんじゃないよ!」と枕を投げて怒られた。でもそれだけだ。それ以外は諭すように語り掛けて、怒鳴ることはない。両親とはまるで違う。でも、私は両親の怒り方に慣れてしまっていたから、ばあちゃんの説教は、いつも聞き流してしまっていた。一方的に「あんたは長女なんだから」の内容ではあったのでちょっと押し付けがましいとは思っていたけど。

昼寝をしているといつのまにか布団をかけてくれていた。
夜、風呂に入っているあいだに毎日布団を敷いてくれた。私は26歳になるまでばあちゃんに毎日布団を敷いてもらっていた。晴れた日は布団を干してもらっていた。夏は麻のカバーを用意してくれていた。小さな子供の頃は、ばあちゃんの入っている布団の方が寝心地が良さそうで、自分の分も敷いてもらっているのによく転がり込んだ。

いつまでも生きている気がしていた。
ばあちゃんと過ごした時間は長すぎた。第二の両親というよりも両親と同等だ。同居の孫だったので、どの孫よりも長い時間ばあちゃんと一緒にいた。
大人になってから、もっとばあちゃんのこと大事にできなかったのかな。
3年前に、みんな先に死んでしまって悲しい、というようなことをぽつり呟いていたのを聞いた。夫も、兄弟も、みんな先に亡くなってしまった。80代のうちにみんな亡くなった。ばあちゃんがいちばん長生きした。長生きしてよかったと思わせるような接し方ができなかった。優しくできなかった。私は私のわがままを通すことしかできなかった。友人へ接するように家族へも優しくできたらよかった。

ばあちゃんは、それでもいいのだろう。
みんな元気で、それぞれ生きているのなら、それでいいのだろう。

もう少し、ばあちゃんとの思い出を振り返りつつ、これからはどうしたら今後こういった人との別れがあるときに後悔を減らしていけるのかを考えつつ、ゆっくり日常に帰っていけたらいいなと思います。
私は良い孫じゃなかった。ごめんなさい。
でも私のばあちゃんとして生まれてきてくれて、ありがとう。